中国語のレッスンは順調に続いている。まぁニートなので、それくらいしかやることがない。
いつもは日本人の先生なのだが、同じ先生だと飽きるだろうという師匠の謎の計らいで、月に一度だけネイティブの授業を受けることになった。今日初めてお会いしたのは、若くて綺麗な中国人の先生だった。
ネイティブということで、発音の練習がメインになった。とにかく中国語は発音が難しい。中でも私は「e」の発音が苦手だ。英語の様な「イー」の音ではなく、口はだらけさせて喉の奥から「ウ」に近い「イ」 の音を絞り出す。
何度やってもうまくいかない。死に際のオラウータンの様な声を発し続けて数分後、先生が突然「お酒は良く飲みますか?」と聞いてきた。「はい」と答えると、更に「お酒を飲み過ぎて吐いたことはありますか?」と聞いてきた。
数え切れないほど吐いてきたが、改めて聞かれると何故か答えに詰まる。「まぁ何回かあったかな?」と言葉を濁すと「それです。吐くときの喉からオェってくるあのイメージで声を出して下さい。」と言われた。先生の顔は大真面目だ。
半信半疑で、リバース時のことを思い出しながら発音したら、一発で通った。「それです、Obarinさん。たくさん飲んできて良かったですね。これからもその調子です」と褒められた。
その時突如、酒で犯した様々な失態が走馬灯の様に脳裏を駆け巡った。
新橋で飲んだ翌日に発見された神奈川タクシーのレシート、出勤時にマンションの入り口に落ちていた自分のベルト、豪遊したはずの財布に何故か金が増えていた朝のこと。思えば36年間、酒の席での記憶は吐瀉物と共に様々な場所に置いてきた。
先生に褒められて初めて、何か今までの自分が肯定された様な暖かい気持ちに包まれた。一滴の酒も無駄ではなかった。失われた記憶は「e」になって帰って来てくれたのだ、と。

授業が終わって改めて考えてみると、別にお酒を飲まなくても吐いた経験は誰しもあるのではないかと思った。それをわざわざ酒に絡めて聞いてくる辺り「さては先生もイケる口だな」なんてほくそ笑んだ無職、穏やかな午後であった。
